2024年9月17日、中欧旅行3日目。昨日夜にEIP(ポーランドの高速列車)でワルシャワから移動してきたので、朝から元気に活動。
この日は第二次世界大戦のきっかけとなった、ドイツによるポーランド侵攻の最初の攻撃が行われたヴェステルプラッテへ。
バスでヴェステルプラッテへ
グダニスク中央駅前から出る606番(106番でも可)・ヴェステルプラッテ行きのバスに乗車。しかし、時間があるので次のバス停まで歩いてみることに。
グダニスクの市街地とヴェステルプラッテを結ぶバスは、おおむね30分間隔で運行されているようだ。
余裕時分は20分ほどだったので、写真撮影を適当にした後乗車。
グダニスクの公共交通
グダニスクの公共交通(トラム・バス)の運賃体系は少し特殊。
チケットの種類 | 大人 | 学生 |
---|---|---|
1乗車(乗り継ぎ不可) | 4.8 zł(≒180円) | 2.4 zł |
75分(乗り継ぎは時間内何度でも可) | 6.0 zł(≒230円) | 3.0 zł |
24時間券 | 22 zł(≒830円) | 11 zł |
ワルシャワのように時間制運賃・・・かと思いきや普通に1回限りのチケットがあったりと、初見では頭がこんがらがる。まあ、1日観光するなら普通に24時間券を買うのが無難か。
1日で区切られていないので、夜に中央駅からホテルに向かい、翌日観光に…という使い方もできるので◎
ヴェステルプラッテ
市街中心部からヴェステルプラッテまではバスで35分ほど。
バスを降り、遊歩道沿いに遺構を巡っていくことにしよう。
兵舎跡
バスを降りてから遊歩道に入り、少し右に逸れたところにあるのがこの「第5兵舎跡」。建物の基礎部分だけが残っているのは、ドイツ軍の爆撃で破壊されたため。
兵舎の司令官を含む7人が瓦礫の下敷きになって亡くなった模様。
戦いで亡くなった戦士の墓地もある。
続いて遊歩道を進むと、同じく廃墟となった兵舎跡が現れる。しかし、先ほどの基礎部分だけ残ったものとは異なり、何とか原形を保っているのがこちら。
何でも、2度の爆撃に耐えたのだとか。壁には生々しい弾痕が残っている。
そしてなんと、中に入れる!
入口にはこのような注意書きが。まあ、おおかた保存工事は施したものの、いつ崩れてもおかしくないような状況なのだろうか。
一応、人が立ち入れる部分については、頭上に金網の屋根が取り付けられているので、万が一入っている時に崩壊しても安心(安心ではない)。
天井は抜け落ち、鉄筋で何とか完全な崩壊は免れている模様。
壁の傷やヒビ割れから、ここで何があったのか想像することは難くない。おおよそ建物がしていい形状をしていないのだから、相当な激戦だったことだろう。それもそのはず、ポーランド軍は突如攻撃してきたドイツ軍に対し、7日間もここで耐えたのだ。当時のポーランドとドイツの戦力差を考えると、これは本当に凄いこと。
ちなみに階段以降の1階フロアには立ち入ることはできない。先述の金網も取り付けられていないので、崩壊したら本当にシャレにならないからか。
ヴェステルプラッテの戦いについて
タイトルにも「第二次世界大戦勃発の地」と書きましたが、改めて1939年のあの日、ここで何が起きたのかを少し解説。
当時のドイツはヒトラー率いるナチ党が躍進。一次大戦で失った領土を取り戻すため、領土拡大政策を推進。ここ、ヴェステルプラッテのあるグダニスクも、ドイツ語名ではDanzigといい、長らくドイツ帝国領だった土地。
対外圧力を強めたヒトラーは、オーストリア、ズデーテンラント(現チェコ領)、メーメル(現リトアニア領クライペダ)を次々と併合、続くグダニスク(自由都市ダンツィヒ)も要求に屈すると思われた…のだが、この地を防衛するポーランド当局はこれを拒否。
そして1939年9月1日、「親善訪問」としてヴェステルプラッテに停泊していた戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」が事前通告なしに突如砲撃を開始し、7日間にわたるヴェステルプラッテの戦いが始まったのだった。
さっきの兵舎の右手側には、このような戦争経過に関する解説ボードがいくつか置いてあるので、翻訳を駆使しつつ読み進めていく。
戦争2日目にドイツ軍は空爆を敢行。この日は午後6時まで一切戦闘が起こらなかったものの、ドイツ空軍の急降下爆撃機・Ju 87 シュトゥーカ60機が突如飛来し、ヴェステルプラッテを爆撃。
30分の爆撃の結果、先ほどの第5兵舎に爆撃が直撃するなどして、10名の兵士が命を落とした模様。
3日目以降もドイツ軍は兵力を増強しつつ、継続して砲撃と空爆をヴェステルプラッテに浴びせ続け、物資の尽きたポーランド軍は7日に降伏。
この降伏から約一月後の10月初頭にポーランドは完全降伏。ポーランドは再び世界地図から姿を消すことになったのだった。
ちなみに、9月21日にはヒトラーが訪問していた様子。
それよりも、このボードに書かれていたことの方が衝撃だったので紹介。
Germany waged war against Poland in violation of international law, conducting a terrorist bombing campaign of Polish cities, strafing roads crowded with columns of civillian refugees and murdering prisoners of war and random Polish and Jewish civillians.
―ドイツは国際法に反したテロ作戦をポーランド各都市で開始。民間人や難民の列に向かって機銃掃射を行い、捕虜、ポーランド人、ユダヤ人を無差別に殺害した。
また、到底ここには載せられないが処刑される様子の写真もあり、約2万人の「反ドイツ的」とされたポーランド人が犠牲になった模様。
・・・東方生存権理論だったりホロコーストだったりと、この時代のドイツ人は他の人種をマジで「人」として見ていない節が散見されて本当に恐ろしい。これがナチスによる思想教育の結果なのか。
生まれる時代、国が違うだけで人はこんなにも変わってしまうんだなあ。
記念碑
先ほどの兵舎と解説ボードがある道をさらに真っ直ぐ進むと大きい広場に出る。
そしてこれがヴェステルプラッテの記念碑。圧倒的不利な状況にもかかわらず、最後まで陣地を守り抜こうとしたポーランド兵の英雄的戦いを称えたもの。今でも献花が絶えない様子がうかがえる。
ちょうど大型客船が横を通過していった。
こうして平和に世界を旅できる世の中が続いてほしいと、ここで起きた悲惨な戦争に想いを馳せつつ願うばかりだ。
帰りのバスまで時間があったので、海岸に出てバルトの海を眺めてみる。
到底ここで激戦が行われたとは思えない、穏やかな海だった。
今度は市内に戻って戦争博物館を訪問したので、この話はまた後の記事で。
コメント