オスカー・シンドラーのホーロー工場とロケ地・カジミェシュ地区

こんにちは。

さて、皆さんは「シンドラーのリスト」という映画をご存じでしょうか。スティーヴン・スピルバーグ監督が手掛け、最優秀アカデミー賞にも選出された作品ですが、1993年の映画なので、若い方は知らない人も多いのではないでしょうか(かくいう私も24歳なので、公開当時生まれてないのですが)。

簡単なあらすじを以下に示しておきます。

1939年-ドイツ軍占領下のクラクフ。過激な反ユダヤ主義を掲げるナチ党は、ポーランド各地でユダヤ人をゲットーへ隔離・追放し、ここクラクフでも同様の措置が取られた。

そんな中、戦争を「ビジネスチャンス」であると捉えた、ナチ党員であるドイツ人実業家:オスカー・シンドラーがクラクフにやってくる。彼は現地で経営破綻した工場を買い取ってホーロー工場を開設、労賃がタダ同然のユダヤ人を雇って操業を開始し、一財産を築くことに成功する。

そんな中、クラクフ・ゲットーの解体が決定し、ユダヤ人は郊外のプワシュフ強制収容所へ移送されることとなる。そこでは冷徹なSS親衛隊将校:アーモン・ゲートとその部下が次々とユダヤ人への虐殺行為を繰り返し、絶滅収容所への移送が進むなど、シンドラーの工場で働く労働者にも死の危機が迫っていた。

当初はユダヤ人のことを「単なる金儲けの道具」としてしか見ていなかったシンドラーも、強制収容所の惨状を目の当たりにし、救出に向けて密かに動き出すこととなる。

シンドラーのリスト あらすじ -Wikipedia「ストーリー」より一部改変

これをAmazonプライムで購入し、行きの飛行機で見ていた私。思わず目を覆いたくなるようなSS隊員によるユダヤ人への暴行・虐殺シーンといったショッキングな演出が当然多く、旅行開始前からかなり精神を削られました。

片腕がないのを見られ躊躇なく頭を撃ち抜かれる老人、ゲットー解体の際に逃げ出し後ろから銃撃され絶命する少年、建物の設計図を見てアドバイスをしたがために殺されるユダヤ人の女性技師…などなど、ショッキングな処刑シーンは枚挙に暇がありません。

しかし、人生で一度は見ておくべき作品だと私は思います。第二次世界大戦下で行われたユダヤ人虐殺(ホロコースト)の歴史は知っておくべきですし、何より生まれる時代が変わるだけで、そしてプロパガンダや思想教育で人はここまで残虐になってしまうのか…といった恐怖性も私は感じ取りました。二度目は辛すぎて見られないかもしれない

そして、今回はそんな映画の舞台となったドイツホーロー工場(D.E.F:Deutsche EmailwarenFabrik)、今は博物館となっている旧オスカー・シンドラーのホーロー工場を見学しに行ったので、その訪問記を書き留めておくことにします。

記事の性質上映画のネタバレがありますので、気になる方は是非ご視聴のうえ、ご覧ください。

入場

博物館はトラムのZabłocie電停から歩いて5分。

作中ではD.E.Fと看板が掲げられていた入口。今では封鎖され、訪問者はその左の小さい入口から入ります。

この日自分は14時からの入場でオンラインチケットを購入していたので、スマホに保存していたe-チケットを見せて入場。

一応予約なしでも当日その場でチケットは購入できるっぽいが、時間別で人数制限があるので、心配な人はあらかじめ買っておくのが吉。

購入はこのサイトから→https://bilety.mhk.pl/?lang=en

(クラクフにある各博物館のチケットを購入できるサイト。個人訪問なら、まずSchindler’s Factoryシンドラーの工場を選んだあと、Schindler’s Factory – permanent exhibition – Individual visitorsを選択し、都合の良い日付、時間を選べばOK。)

料金は大人36zł≒1370円(1zł=38円で計算)。

クラクフ前史

入るとまずはクラクフの歴史が紹介されていたり、ナチス・ドイツのヨーロッパでの拡大、そしてポーランド侵攻に至るまでの大まかな前史が紹介されている。

この辺りはワルシャワ蜂起博物館や第二次世界大戦博物館など、散々他の博物館で見てきた歴史なので、軽~く流し見。

ちなみにこの博物館、順路の前半部分は特にシンドラー要素はなく、第二次世界大戦下のポーランドの様子を紹介しているような感じ。

ナチス・ドイツによる占領期

そしていつもの鉤十字ハーケンクロイツの旗。両脇には占領当局が出したと思しき布告の数々が大量に貼ってある。

ユダヤ人に拒否権はない。

占領下での暮らしぶりを紹介する部屋。この日の午前に撮影したトラムに似た車両が展示されていて感動。こんな時代から同型の車両が運行されていたなんて。

ドイツ当局によるポーランド文化の破壊。文化人は捕らえられ、偉人の像は打ち倒された。
占領当局に犯罪者として扱われた人々。簡易裁判所で死刑を宣告された彼らの刑は即時執行され、街中の「処刑ポスター」に名前を張り出されていた。

作中のセット

クラクフ中央駅

そして入ってから3,40分ほど、ようやく作中で見覚えのあるセットが現れた。これはクラクフ中央駅の看板だ。

ドイツによる本格的な占領が始まる前は”Kraków Główny”と、ポーランド語での表記だったが、占領後はこのように”KRAKAU Hbf.”というドイツ語表記に変わる、という描写が作中でもなされていたはずだ(GłównyとHbf(Hauptbahnhofの略)は、それぞれ両国語で「中央駅」を表す単語。)。他の案内サインもドイツ語表記に統一されている。

このシーンとか。これ以外にも複数回登場する。

当時のPKP(ポーランド国鉄)の時刻表もある。鉄オタには垂涎ものだろう。

手前にピントを吸われてしまった。

入口の階段

この階段もかなり印象的なシーンで登場するので、記憶に残っている人も多いはず。

最初のあらすじでも述べたように、当初は「低賃金で雇えるから」という至極単純な理由でユダヤ人を雇っていたシンドラー。しかし、彼はドイツ占領下でのユダヤ人の扱い、そしてあまりにも惨い収容所の実態を目の当たりにし、「過酷な環境下にいるユダヤ人を自身の工場で保護しよう」という想いが芽生え、ユダヤ人の間では「シンドラーの工場の待遇が良好だ」という噂が広まります。

そんなある日、その噂を聞きつけた一人の女性がシンドラーを訪ねます。なんでも、「収容所にいる両親をここで雇って助けてほしい」という依頼。その場では「そんなことしたら私の立場が危なくなる」と激怒して女性を追い返すシンドラーですが、彼の良心がそうさせたのか、その女性の両親は無事工場で雇われることになった…という描写があります。

そんな依頼に来た女性が上がっていったのがこの階段。この踊り場に出た時は思わず声が出ました。「あ、あのシーンだ」と。

この後も占領下クラクフでの暮らしに関する展示が続きます。

あるユダヤ人の回想。「ある日、ポーランド人のレンガ職人のところを通りかかったとき、彼らは石灰を私に吹きかけ、笑っていた。今朝までポーランド人に対しては信頼を抱いていたのに…」

もはやポーランド人からも差別の対象になるユダヤ人。ドイツ的には両者とも「劣等人種」ですが。

執務室

そしてシンドラーの執務室へ。これまでの展示室には窓が付いておらず、展示内容と合わせてダブルで暗い印象を受けましたが、この部屋だけやけに明るくなっています。シンドラーがユダヤ人にとっての一縷の希望だったということを暗示なのか。

当時作られたホーロー製の鍋がガラス張りの壁にぎっしり。

訳:「シンドラーのリスト」

 詳細な収容者の記録は、すべての労働収容所と強制収容所で保管されていた。収容者の詳細は「生きている者」と「死亡した者」に分けられ、継続的に記録された。すべての輸送記録も収容所に保管されていた。

 1944年8月末、パレスチナにてヘブライ語で出版されていた日刊紙「ダヴァル」が、リポヴァ補助収容所の収容者の記録を掲載した。このリストは連絡員によってブダペストのユダヤ人救援委員会に送られ、回覧された。リストに載っていない人の中には、ブリュンリッツ(現在のチェコにある元強制収容所で、シンドラーがアウシュヴィッツに送られるユダヤ人を雇い匿った場所)に到着してない者もいた。

 さらに別の「シンドラーのリスト」は、恐らく1944年10月中旬、エマリア(この工場のこと)のユダヤ人労働者をブリュンリッツに送る決定がなされたときに作成された。彼らの名前のリストは労働力の搾取に関する問題を担当する収容所副所長、SS大尉フランツ・ミュラーの事務所で作成された。リストには男性700人、女性300人の合計1000人の名前が含まれることになっていた。当時リポヴァ通りの収容所での選別後、数百人がエマリアで働いていた。また、明らかにシンドラーの命令で年齢、健康、技能に関係なく、プワショフ強制収容所に収容されていた彼らの親族の名前もリストに加えられ、窓立地の衣料品会社の数十人の労働者の名前もリストに加えられた。リストは複数の人々によって作成され、その中の1人マルセル・ゴールドバーグは多額の金銭と引き換えに自分の弟子をそのリストに加え、代わりに元々載っていた者を消したために、自身の名誉を傷つけた。

 上記のリストは今日まで残っていない可能性が高い。しかし、「シンドラーのユダヤ人」のリストは他に2つ残っている。最初のリストは1944年10月21日にグロース・ローゼン強制収容所で作成された。これにはブリュンリッツ収容所に送られる700人のユダヤ人の名前が記載されている。もう一つのリストは同収容所の中央当局によって作成された。これにはゴレショフ強制収容所や、そこに移送された解体された収容所のユダヤ人を含む、ブリュンリッツ収容所のすべての収容者が網羅されており、1200人の名前が記載されている。

 なお、スティーヴン・スピルバーグの「シンドラーのリスト」で、オスカー・シンドラーがイザック・シュターンにブリュンリッツに移送される1000人の名前を口述するシーンがあるが、これはフィクションである。

ホーロー鍋の入ったガラスケースの中には、「シンドラーのリスト」に掲載されていたユダヤ人の名前がズラリと並んでいた。

その後も基本的にクラクフの歴史に焦点を当てつつ、作品に関連する展示もちらほら。これは作中に出てきた収容所、クラクフ・プワシュフ収容所を再現した展示室。作中では収容所の所長であるSS隊員(アーモン・ゲート)の家から、スナイパーライフルで収容者を狙撃していた(実話)。

チフスを媒介するシラミにユダヤ人を例えたポスター。

この手の博物館あるあるのプロパガンダポスターも。こういうプロパガンダポスターからしか得られない栄養がある。

当時の生活と思しき展示。

そして突然のスターリン。当時はドイツの支配から救ってくれた英雄扱いだったのかもしれない。

最後はシンドラー本人とリストに掲載されたユダヤ人たちの顔写真が展示された部屋で終了。合計2時間半ぐらいの見学でした。

感想としては、展示物が多く説明もかなり詳細になされていたので、やはりある程度英語ができないと苦しい場面が多いなあという印象。

ただ、映画のセットや視覚的にわかりやすい展示も多いので、面白い(interestingの方)博物館だとは思います。

おまけ:ロケ地のカジミェシュ地区

さて、最後にロケ地となったカジミェシュ地区をおまけに紹介しよう。

ロケ地となった通りは博物館からヴィスワ川を渡り北東方向へ。歩いたら30分弱かかりますが、トラムに乗ればOK。

壁に落書きが目立つなど、雰囲気は悪め。ロケ地の通りはGoogle Mapの”Schindler’s List Passage”のところ。トラム8,10,13,72番のStradom電停からすぐ。

レストランが居を構えていたりと、映画の雰囲気とはかなりかけ離れているが、ここが間違いなく映画で出てきた通りである。

見てない方に解説すると、ここはクラクフ・ゲットーの一部。ある日、ゲットーの解体が決まり、郊外のプワシュフ収容所へユダヤ人が移されることになった。閉鎖の当日、SS隊員がこの通りに並ぶアパートから次々とユダヤ人を追い立て、家財道具を通りに投げ出す場面で使われたのがここ。

収容所に送られたくないユダヤ人は何とか床下に隠れたりしますが、天井に聴診器を当てられ、隠れていると判明したら、容赦なく天井ごと機銃掃射の的になり殺される…という何とも惨い場面でもある。

ここはユダヤ人が追い立てられた後、まだ残っている者がいないか対独協力者であるユダヤ人の少年がゲットー内を見回るシーンで、見回りを続けるSS隊員から母娘を階段下に匿うシーン。ここも印象的なシーンなので視聴した方はピンと来るのではなかろうか。

という訳で、以上オスカー・シンドラーのホーロー工場とロケ地のカジミェシュ地区でした。

現地には行かずとも、映画だけは是非。ただし18+Gなので注意。

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