皆さんこんにちは。
平和、享受していますか。
日本国民は、恒久の平和を念願し…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した…われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
-日本国憲法前文より
我らが日本国憲法にも「平和」については謳われているところ。
しかし、「平和を念願」とはいうものの、この理念を実現することはたやすいことではない(というか人類が存在する限りほぼ不可能)のが事実。現にロシアによるウクライナ侵攻、混乱を増す中東情勢…こういったことに対して、我々一般人は指を咥えて見ていることしかできません。あゝ無力なり。
ただ、今起きていることや過去の歴史や事実を勉強し、世界情勢に対して疑問を持つ態度自体は重要なことだと自分は信じています。例え、何も為せないとしても。
ワルシャワ蜂起とは?
第一次世界大戦~二次大戦までの流れ
さて、本題に入りましょう。
今回行くのはポーランドの首都・ワルシャワにある「ワルシャワ蜂起博物館」。そもそもこの「ワルシャワ蜂起」がなぜ起こったのか、これを説明するには1900年代前半の歴史を説明する必要があるので、以下に簡単な年表を載せておきます。
- 1914年第一次世界大戦勃発
独墺を中心とする中央同盟国陣営と、英仏露を中心とする連合国陣営との戦争勃発。
- 1918年第一次世界大戦休戦
正式な終結は1919年、ヴェルサイユ条約にて。123年ぶりにポーランドが独立を回復(ポーランド第二共和国)。
- 1933年ドイツでヒトラー内閣が発足
以降、領土拡大政策を推進(ズデーテン併合、アンシュルス等)。
- 1939年4月ドイツ、自由都市ダンツィヒ(現ポーランド領・グダニスク)の割譲等を要求
ドイツにとっては飛び地になった東プロイセンと本国間を連絡するのに地理的に重要な場所。英仏の後ろ盾を得たポーランドはこれを拒否。
- 1939年9月ドイツによるポーランド侵攻
英仏がこれに続きドイツへ宣戦布告し、第二次世界大戦勃発。更に独ソ不可侵条約に基づきソ連も参戦、ポーランド中央政府は亡命し、独立を喪失。以降両国による苛烈な占領統治を受ける。
- 1943年2月スターリングラードにてドイツ軍、決定的敗北
以降、戦争の主導権を喪失したドイツは後退を余儀なくされる。
- 1944年8月ワルシャワ蜂起
ヴィスワ川まで前線が後退。ソ連軍の決起勧告に応じる形でポーランド国内軍が蜂起。
- 1944年10月蜂起鎮圧
蜂起に対する報復として、ワルシャワ市街地は徹底的に破壊された。
- 1945年5月ドイツ降伏
- 1947年ポーランド人民共和国成立
ソ連の衛星国として、共産主義国家の歴史を歩む。
ワルシャワ蜂起博物館は、1939年~1945年にかけての占領下でのポーランドの暮らし、そして1944年に発生したワルシャワ蜂起に焦点を当てた博物館となっています。
ワルシャワ蜂起
蜂起については年表でも少し述べた通り、苛烈な支配を続けたドイツ占領軍に対する武装蜂起。
しかし敗戦前年のドイツ軍とはいえ、大国は大国。期待されたソ連軍による支援も得られず、蜂起は徹底的に鎮圧されてしまいました。
詳しくは館内の紹介から。
入場
これが博物館。PとWが組み合わされたようなマークは、蜂起を起こしたポーランド国内軍のシンボル。こういう施設に国旗がはためいてるの、その国の誇りのようなものが感じられて良い。
館内には大きい荷物は持って入れないので、敷地内に入ったらまず、左手にあるコインロッカーに荷物を預ける。5zł 硬貨が必要で、使用後は戻ってくる。
そして入口正面の奥にある建物でチケットを購入。なお、この日は月曜日で、なんと入場無料だそうだ(「フリーデイ!」と言われた)。通常は30zł(≒1,120円)らしい。一応、入口でバーコードを読み取る職員がいるので、無料でもチケットは受け取る必要がありそうだ。
また、ここでオーディオガイド(しかも日本語対応、該当するエリアに入ると自動でガイドが流れる優れものらしい)が借りることができることを完全に失念しており、そのまま入場してしまうという痛恨のミスをやらかす。たったの10zł(≒370円)で借りられたというのに。
大戦初期
ポーランド占領
入ってすぐに目立つのがこの展示。
ナチス・ドイツ、ソ連の二大国に東西両側から侵略される様子と、それへの抵抗を促すプロパガンダポスター。
当然大国二つ相手に東西二正面作戦を強いられれば勝てるはずもなく、侵攻開始からものの1ヶ月でポーランドは降伏。
破壊された市街地の再現。
戦争により市街地が破壊されていく様子。かわいい絵柄で描かれているのが余計心に来る。
ゲットー
ナチス・ドイツを語る上で外せないのが、国家を率いるナチ党の強烈な選民思想と反ユダヤ思想。特にポーランドには当時約350万人を数えるユダヤ人が住んでおり、これに対し占領当局は「ゲットー」と呼ばれる閉鎖地区を設置、ユダヤ人を収容しました。
占領が始まり、「ユダヤ人」とみなされた者は「ダビデの星」(イスラエル国旗に描かれているアレ)の腕章を付けることを強制され、ゲットーから出ることを禁止された。当然、脱走は即死刑だったよう。
ゲットー内でユダヤ人は独自の社会を形成していたようですが、環境は良かったとは言えず、配給不足による飢え、衛生環境が整っていないことによる伝染病の流行等…様々な問題を抱えていた模様。
それでも、後に送られることになる絶滅収容所(名前からしてヤバい)に比べれば遥かにマシな暮らし向きだったのではないでしょうか。
ちなみに、前の写真中央下にあるのぞき穴、左下にある井戸の中では、恐らく絶滅収容所内のものと思わしき凄惨な映像が流れていた。
ドイツ占領下のワルシャワ
ちょっと順路からは逸れるが、時系列順の方が分かりやすいと思うのでこちらから。
入口から通路を進んでいくと、大きいホールに出る。
そして、映像を流しているスクリーンの横にある階段を下りていくと、いかにもドイツといった感じの軍歌が流れている展示スペースがある。
ここではドイツ占領下におけるワルシャワでの暮らしが紹介されているので、こちらを見学。
ドイツはポーランド占領後、ドイツ人が多く住む地域についてはそのままドイツ領に編入したものの、それ以外の領地では「ポーランド総督府」を設置し、ポーランドの統治にあたった。
親衛隊(SS)全国指導者のヒムラー(左)と、ポーランド総督のハンス・フランク(右)。フランクによる統治は過酷そのもので、着任してからはポーランドの知識人や文化人を次々に処刑。生き残ったポーランド国民に対しても強制労働を課した。
また、総督府による統治下では、街中にナチスの鉤十字の旗が掲げられ、通りや公園の名前もドイツ風に改称。「アドルフ・ヒトラー公園(Adolf Hitler Platz)」なんてのもあったよう。うーん、悪趣味。
そして、占領当局はドイツ人をとにかく優遇。ドイツ人専用の路面電車、劇場、飲食店、スタジアム…何から何までポーランド人から奪い取り、自分たちのものにしてしまった。
これもナチズム特有の選民思想によるもの。ヒトラーは著書「我が闘争」の中で、ドイツ人は人種的に優れたアーリア人であり、東欧に住むスラヴ人のような人種は「劣等人種」であるという「アーリア人種論」を記し、それがそのままナチス・ドイツのイデオロギーになってしまった。
そして前述の通り、ポーランド人もドイツ人の奴隷として強制労働に従事させられたり、民族浄化の一環で処刑されたりと、悲惨な運命を辿ったのだ。
全く、トンデモオカルト国家この上ないが、こんな国家がつい80年前まであったことを考えると、不謹慎ながらロマンを感じてしまう。
ワルシャワ蜂起
さて、本筋に戻り、順路通りエレベータで3階へ。最初普通に階段で2階に上がってしまい、「話飛び過ぎじゃね?」と思ったのは内緒。
一時はモスクワの手前50㎞まで迫ったドイツ軍も、1944年にはワルシャワ東部を流れるヴィスワ川まで前線が後退。いよいよドイツの敗色が濃厚となってきた頃、ソ連軍の呼びかけに呼応し、8月1日にポーランド国内軍が蜂起、ワルシャワ蜂起が始まった。
突然の蜂起に混乱するドイツ方を翻弄し、ポーランド国内軍は次々と市内を占拠。優勢だった国内軍はソ連軍に協力を要請したが、何故かソ連軍はこれを拒否。更に、米英による支援物資を空輸するための飛行場の使用許可申請も却下してしまった。
自分たちから蜂起を起こすよう呼び掛けておいて、それには一切関与しないソ連(何ならむしろ妨害してるまである)。悪魔か?
しかしこれには戦後のポーランド支配を考え、ポーランド国内軍の力を削いでおこうという意図があったとか。降伏直前の対日参戦といい、どこまでもやり方が汚いソ連、もはや一周回って尊敬する。
そして、一連の蜂起にヒトラーは激怒。直ちに蜂起を鎮圧するよう命じられた親衛隊の各部隊は、軍人、民間人を無差別に攻撃。
上の写真のオホタ地区では「オホタの虐殺」と呼ばれる惨劇で1万人の民間人が命を落とし、その他市内各地域で同様の無差別攻撃、虐殺が行われ、一連の蜂起による犠牲者数は20万人に上った。
ワルシャワ市内の地下を模した展示。”UWAGA! NIEMCY(ドイツ人注意!)“と壁面に書かれていた。地下に逃げ込んだ人々はどうなったのだろうか。
蜂起鎮圧のその後
結局、ポーランド人の抵抗も虚しく、ワルシャワ蜂起は2か月あまりで鎮圧された。
ワルシャワの運命
大規模な市街戦が展開された結果、多くの市民が命を落とし、ワルシャワ市内はまさに廃墟となってしまった。
しかし、ドイツは蜂起に対する更なる報復として、ワルシャワ市街を徹底的に破壊する計画を実行。市街にわずかに残る建物もくまなく破壊して回った。
こちらの展示は”The death of the city(都市の死)”と名付けられたもの。ドイツはワルシャワ市街地を区画に分けた上、建物に番号を振り、破壊方法も指示していたらしい。ドイツ人の几帳面と言われる性格がこんなところで発揮されるの、最悪すぎる。
ソ連衛星国として
2階の隅に、「聖なる戦い(ソ連軍歌)」が流れている真っ赤な部屋がある。
戦後、ドイツ以東のヨーロッパ諸国は、ソ連の影響下に入り、共産主義国としての道を歩み始めた。
当然、ポーランドも例外ではなく、1947年にポーランド人民共和国が正式に成立。ポーランド統一労働者党による一党独裁制が敷かれた。
そして1989年の民主化まで、ポーランドは再び暗い歴史を歩む羽目になるのであった。
おわりに
いかがだっただろうか。
展示や説明にはかなりのボリュームがあり、当記事でも割と省略して紹介したものの、長くなってしまった感が否めない。実際、3〜4時間ぐらい見学していたと思う。
ポーランドが歩んできた苦難の歴史、大戦と蜂起で破壊された市街地、それでもめげずに復興した現在の首都・ワルシャワの歴史が、豊富な史料と共に理解できる博物館になっている。
ただ何となく歩いていたワルシャワの街並みを見る目が変わるのは間違いない。
ワルシャワを訪れるなら、是非「ワルシャワ蜂起博物館」へ。
それではまた。