軍事博物館でトルコ史を辿る(ケマル・アタテュルク編)【23-24年末年始トルコ旅#6】

ハルビエ軍事博物館

スレイマニエモスクなどがある金角湾南岸から再びメトロM2に乗車し、オスマンベイ(Osmanbey)駅で下車。この駅が最寄りの軍事博物館が目的だ。

オスマン帝国の旧士官学校をそのまま博物館にしたという。入る前には荷物検査があった。

入口には何やら中央アジアやコーカサス諸国の国旗モニュメントがズラリ。左からウズベク、キルギス、トルクメン、カザフ、そして実効支配している北キプロスとアゼル。まあ、例によって関係劣悪なアルメニアはありません。それにしてもこのチョイスは何なんだろうか。

入場料はこんな感じ。トルコ国民とそれ以外の観光客で料金体系が分かれており、我々外国人観光客は入場料200TL(≒920円)。また、「メフテル」という軍楽隊のコンサートチケットが+100TL(≒460円)で購入できる。ここに来た目的は後者のコンサートが半分以上なので当然購入した。

なお、メフテルのコンサートは15時から16時の1時間で行われる。博物館自体の開館時間は9:00-17:00。

さて、早速トルコ史のページを手繰っていくとしよう。

ケマル・アタテュルクという男

一番上の写真はオスマン帝国の精鋭部隊「イェニチェリ」のコスプレをしたケマル。

まず、入口を入るとすぐに大量の写真と肖像が目に入る。もちろんこの人物はトルコ共和国建国の英雄、ムスタファ・ケマル・アタテュルク

彼が従軍した戦いの詳細についてはアンカラの独立戦争博物館にの際の話に譲るとして、ここではざっくり彼がどんな人物であったかを紹介する。

ちょうど共和国建国100周年を祝して特別展示を行っていた。なお、解説は全てトルコ語。

エリート軍人として

彼は1881年、現ギリシャ領テッサロニキ(当時のオスマン帝国領・サロニカ)に生まれ、陸軍幼年学校、予科士官学校を経てこの士官学校で学び、その後成績上位者のみが進学できる参謀科へ進んだ筋金入りのエリート軍人だ。

博物館内にある士官候補生たちの授業風景。手を挙げているのがムスタファ・ケマル

卒業後はシリアに配属された後リビアへ転戦。ドイツを盟主とした中央同盟国陣営で参戦したWWIの際には、イギリス軍からガリポリ半島を文字通り死守。途中体調を崩して湯治を挟みつつも、復帰後は再び激戦地を転戦、戦線の維持に心血を注いだ。

第一次世界大戦に敗北、国民闘争の開始

しかし、彼の獅子奮迅の活躍も虚しく、オスマン帝国は敗れた。彼は敗戦後、もはや列強の犬と化し、分割の危機に晒されていた帝国を案じた。

そして1920年8月、イスタンブルの帝国政府はアナトリア半島を列強が分割支配することを定めたセーヴル条約を締結する。あまりにも屈辱的かつ過酷な内容であるこの条約にケマルら一派は猛反発。ここから戦勝国たる列強が主導する戦後の世界秩序への抵抗、そして新生トルコの領土保全を目指した抵抗運動を開始し、アンカラ政府を樹立した。これが国民闘争である。

国民闘争の歴史を記した展示室。

その頃、WWⅠ敗戦に伴う混乱に乗じ、イギリスの支援を受けたギリシャ軍がアナトリア半島内陸部まで進軍し、アンカラに迫っていた。先の大戦で疲弊していた国民軍であったが、彼は反転攻勢を仕掛けることを決意。アンカラ近郊のサカリヤ川でギリシャ軍に対し大規模な攻勢を仕掛け、追い払うことに成功した(サカリヤ川の戦い)。

その後は潰走するギリシャ軍から立て続けに占領地を取り戻し、1922年、遂にエーゲ海沿岸のイズミルを奪還。そして、現在のトルコとほぼ同じ領土及びトルコ共和国の独立を1923年のローザンヌ条約で確定させた。そう、この男がいなければ現在のトルコ共和国はないであろう、正に紛う事無きトルコの英雄なのだ。

国民闘争を貫徹するムスタファ・ケマル。イケメン過ぎる。

共和国大統領として

その後は共和国初代大統領として、新生トルコ共和国の舵取りを担った。世俗主義の考えに基づき、政治と宗教の分離やオスマントルコ語のラテンアルファベットへの転換(文字改革)等様々な政策を行った。また、戦争で痛い目を見た反省から、「祖国に平和、世界に平和」というスローガンを唱え、平和的な外交路線を取った。更には姓氏法を定め、苗字を導入したりもした(ちなみに、ムスタファが出生時の名前で、ケマルは渾名。そしてアタテュルクの名は、この姓氏法に基づき大国民議会から贈られた称号なのだ。)。

文官としてのアタテュルク。

もちろん、彼のその経歴や行った政策が全て手放しで賞賛できるものであるかと言われれば、そうではない。時には批判の対象となる事物だってある(例えば、アナトリア半島の領土は堅持したものの、エーゲ海の島々はギリシャに譲り渡すといった一定の妥協点があったことや、国民闘争で共闘した仲間を排斥し、独裁体制を固めたことなど。前者に関しては地図を見ればわかるが、エーゲ海の島々はトルコ本土ギリギリまでギリシャの領土なのだ。)。

それでも、彼が救国の英雄であり、偉大な人物であったことに疑いはないだろう。現在でも街の至る所で彼の写真や肖像を見かけるのは、現代のトルコ人にも敬愛されている証左なのだから。

駅から博物館に向かうまでにあった、トルコ国旗とアタテュルクの旗。何も知らない人からすれば、本当に鬱陶しいと思うぐらい街中は彼の肖像等で溢れている。

長くなりそうなので、一旦ここで。

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