首都アンカラで独立戦争の歴史を学ぶ【23-24年末年始トルコ旅#16】

前回、アタテュルク廟を紹介したが、ここには独立戦争博物館が併設されている。廟を見学するだけではなく、ここを訪れたならぜひ見学したい博物館だ。

展示物にはトルコ語に加え英語も併記されているので、英語が読めれば事前学習が無くても楽しめる。

近代トルコにおける戦争の歴史

独立戦争博物館だが、アタテュルクの私物が展示されている入口すぐの区画は撮影禁止である写真はない。続く戦争の歴史を記した区画から撮影が可能となるので、そこから紹介する。

第一次世界大戦・ガリポリの戦い

第一次世界大戦をドイツとオーストリア=ハンガリー帝国を中心とする中央同盟国側で戦ったオスマン帝国。陸上では東方でロシア軍に敗退し、海上でもイギリス軍との戦端が開かれ苦境に立たされていた。

そんな中1915年、イギリス政府はダーダネルス海峡攻略作戦を考案、実行に移そうとしていた。

ちなみにこの作戦の立案者は、のちの英首相(当時は海相)のウィンストン・チャーチルだったりする

ダーダネルス海峡とはガリポリ半島とトルコ本土に挟まれた海峡。ここを突破されると、連合国側は一気にマルマラ海を経て帝都・イスタンブルへの侵略が可能となるため、オスマン帝国は是が非でも死守しなければならない超重要拠点であった。

ガリポリの戦いの解説ボード。

そんな中、ガリポリ半島の守りを担う第19師団に配属されたのは、ムスタファ・ケマル…のちのアタテュルク。彼はイギリス軍の上陸地点を完璧に予測し、総勢7万人を数える上陸部隊に対して防衛戦の指揮を始めた。「死闘」とも言われるガリポリの戦いの始まりだ。

死闘と表現するに違わぬその攻防は苛烈なものであり、彼は指揮命令の中でこのような言葉を残している。

「私は貴官らに攻撃を命じているのではない、死ねと命じているのだ。そうして死ぬまでに稼いだ時間で、直に援軍がやってくるだろう。」

ムスタファ・ケマル -独立戦争博物館内のガリポリの戦いに関する解説より訳

言葉通り、ケマル配下のオスマン軍は決死の覚悟で戦線を維持。彼自身も銃弾を受けつつ最前線で指揮し、最初の攻撃から4か月弱経った8月、イギリス軍の攻撃は遂に食い止められたのだった。

サカリヤ川の戦い

第一次世界大戦に敗れた後、帝国は連合国による分割の危機に晒され、戦後の混乱期に陥っていた。

1920年にオスマン帝国(イスタンブル政府)が結んだセーヴル条約。地図上の黄色で示された部分のみがオスマン帝国の領土とされ、他は西欧列強による分割統治とされる過酷な条約であった。

そんな中、イギリスの支援を受けたギリシャ軍がイズミルに上陸し、どさくさに紛れて占領を開始。ここからギリシャ軍はオスマン帝国の戦後混乱に乗じて侵攻を始めた。これは古代ギリシアの復興を掲げた「メガリ・イデア」の考えに基づいたもので、いわゆる希土きと戦争と呼ばれる戦いが始まった。

ギリシャ軍はアナトリア半島内陸部へ侵攻し、アンカラ近郊のサカリヤ川東岸まで迫った。この頃、帝国から分離したアンカラ政府を樹立し、総司令官に任命されていたケマルは、ギリシャ軍への反撃を画策。

そして1921年8月23日、ギリシャ軍との戦いが始まった。これがサカリヤ川の戦いである。

兵力はほぼ互角であったものの、WWⅠの痛手からまだ立ち直っていない国民軍は疲弊しており、装備の質はギリシャ軍が圧倒していた。

途中危機的状況に陥ったものの、ケマルはギリシャ軍の攻勢も限界に達していると読み取った。その後はその卓越した手腕を遺憾なく発揮し、見事反攻作戦は成功、ギリシャ軍を撤退まで追い込んだのだった。

「防衛線なるものは存在しない。トルコ全土が防衛すべきエリアなのだ。市民の血でトルコの大地が染まってしまうまで、諦めることなどできない」

ムスタファ・ケマル・パシャ -サカリヤ川の戦いにおける指令にて
サカリヤ川の戦い後、表彰された総司令官ムスタファ・ケマル・パシャ(左)と西方司令官イスメト・パシャ(右)。

大攻勢

アンカラ政府がサカリヤ川の戦いに勝利したのを見た各国は外交方針を改め、帝国内の占領地からの撤兵を取り決める条約を結ぶなど、一定の譲歩を見せるようになった。ただ、イギリスは依然としてギリシャ支持の姿勢を崩さず、ギリシャ軍は未だイズミル近郊に軍を展開させていた。

先の戦いで疲弊した軍隊を再編し、着々と攻撃の準備を進めたケマル。ちょうどサカリヤ川の戦いから1年経った1922年8月26日、未だ残るギリシャ軍に最後の一撃を加えるため、大攻勢を敢行した。

終始戦いを有利に進めたアンカラ政府軍は、ギリシャ軍に圧勝わずか5日で勝敗は決し、最後の被占領地・イズミル奪還に向け西進するのだった。

「兵たちよ!目標は地中海だ。進め!」

ムスタファ・ケマル・パシャ -大攻勢後の勝利宣言にて
上の壁画はこの「大攻勢」の際、司令部の近くで撮られた写真を模したもの。連合国による分割に抵抗し、ギリシャからアナトリア半島を守り抜いた国民闘争を象徴するものである。

ちなみにトルコでは、大攻勢の勝利が決定的となった8月30日を「戦勝記念日」としており、国民の祝日となっている。

イズミル奪還~共和国成立

イズミルに入市するムスタファ・ケマル一行(右)。

9月9日、アンカラ政府軍はイズミルへ入市。その後ギリシャ軍は完全に撤退し、アナトリア半島のすべてをその手中に収めた

11月1日、アンカラ政府だけがアナトリア半島における唯一の正当な政府であるとし、君主制が廃止されるとの声明が出された。オスマン帝国最後のスルタン・ヴァフデッティンは亡命し、これをもって600年以上に渡って続いた大帝国は滅亡したのだった。

同月には講和会議が開かれ、セーヴル条約で取り決められた領土分割案は破棄。その翌年、アンカラ政府側の主張が大幅に認められたローザンヌ条約が結ばれ、現在のトルコ領とほぼ同じ領土が確定した。

そしてローザンヌ条約成立後の大国民議会にて共和国宣言がなされ、新たにトルコ共和国が成立、現在まで続いている。

その他の展示

いかがだっただろうか。何ともドラマチックな建国経緯だと思う。

トルコの街を歩いていると、必ず目に入るのが国旗やアタテュルクの旗と肖像画。街の至る所にあるのだが、それはこういった建国経緯があるからこその愛国心の表れなのかもしれない。

以下には他にあった展示など、数枚紹介して終わりにしたいと思う。

この博物館の構造は入口からアタテュルクの私物に関する展示室、国民闘争に関連する戦争の歴史、壁画等の展示室、出口まで続く回廊、売店となっている。

国民闘争を共に戦った将軍達。
「主権は無条件に国家に帰属する」
「4月23日(第1回大国民議会が開かれた日)はトルコ国家の歴史の始まりであり、新たなる転換点である」
前者は今でもトルコ共和国の標語になっている。
執務室のアタテュルク。

アンカラはカッパドキアへの経由地としてそのまま観光せずに通り抜ける人も多いと思う。しかし、建国の父が眠る廟や、現在のトルコ共和国の礎となった歴史を豊富な展示と共に学べるこのアタテュルク廟と独立戦争博物館だけでも、訪れる価値が大いにある。

その国の歴史を知れば、街歩きがもっと楽しくなるはずだ。

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