シャルロッテンブルク宮殿
ドイツ3日目の朝、この日も目覚めて外を見ると、あいにくの天気(曇り時々雨)。冬のヨーロッパは天気が悪い故に日照時間が短いらしく、例えば12月の東京の日照時間は平均166時間なのに対し、ドイツ西部・デュッセルドルフでは平均40時間。
冬に欧州旅行へ行かれる方は、天気には期待しない方が良いかもしれません。
さて、この日は1日ベルリンで時間を取っているのでベルリン市街を散策します。
まずはホテルからほど近かったシャルロッテンブルク宮殿へ。
1699年、当時のプロイセンにおける王・フリードリヒ1世はフランス王家に憧れ、ヴェルサイユ宮殿を参考にこのシャルロッテンブルク宮殿を造営させたと言います(2枚目、騎馬像の人物)。
この時代、当時の王都ベルリンは「シュプレー川のアテネ」と呼ばれるほど文化が発展したものの、一方でこんな豪勢な宮殿を作らせる所からも窺えるように国庫は貧窮、国民の税負担はとんでもないことになっていたそうな。
この日は朝早かったので中はまだ開いておらず、そのまま6月17日通りの方へ抜けてしまいました(本当はこの裏手にある庭園が見所だったりするのですが、当時は何も下調べをしていなかったので…)。
戦勝記念塔周辺
シャルロッテンブルク宮殿前を通る「オットー・ズーア・アレー」を南東方向へ進み、ブランデンブルク門へ続く大通り、「6月17日通り」に合流します。
第二次世界大戦終結後、東と西に分割されていた当時のベルリン。1953年6月17日に起きた東ベルリン暴動による惨劇を後世に伝えるため、改称されたという経緯があります。
ちなみに、この道路は当時の西ベルリン側。当時はブランデンブルク門を基準に東西に分かれていました。
6月17日通りの合流地点からしばらく歩くとラウンドアバウトの中央に戦勝記念塔が現れます。これはプロイセン王国時代、デンマーク戦争の勝利を記念して建てられた塔。この戦争を足掛かりにプロイセン王国は普墺戦争、普仏戦争と立て続けに勝利、ドイツ統一を成し遂げます。
戦勝記念塔の周りはちょっとした公園になっており、ドイツ帝国成立の立役者であるビスマルクと大モルトケの銅像が。
大モルトケはプロイセン王国参謀本部の総長を務めた人物で、鉄道や電信といった当時の最新技術の潜在能力を余すことなく引き出すことで他国を圧倒、その優れた戦術によりデンマーク戦争に始まる3つの戦争を戦い抜き、勝利へ導きました。
また皆さんご存じビスマルク。「目下の問題(ドイツ統一)は演説や多数決では解決せず、鉄と血(軍事)によってのみ決定される」という演説から「鉄血宰相」などと揶揄されていますが、まさにその通り自由主義者の反対を押し切り軍制改革を断行。そうして強化された軍隊は以後のプロイセン王国を中心としたドイツ統一に向けた足掛かりとなります。
ブランデンブルク門周辺
ソビエト戦争記念碑
ブランデンブルク門の手前にソ連の国章が刻印されたモニュメントを発見。
当時何となく写真を撮っていましたが、これはベルリン市街戦の際に落命した兵士を追悼するモニュメントだそうで、中央の銅像はソ連兵士。
Tear down this wall!
こちらはブランデンブルク門前にある地面に埋め込まれた銘板。
冷戦末期・ソ連崩壊の4年前である1987年、西ベルリンはブランデンブルク門前の壁間近で演説した当時のアメリカ大統領、ロナルド・レーガンが言い放った「ゴルバチョフ、この壁を壊しなさい!」という発言が由来となっています。
当時のソ連指導者・ゴルバチョフはペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)等の真新しい政策を次々実行へ移すのですが、その自由化・民主化が逆に仇となり、ソ連崩壊への道をひた走ることになります。
このゴルバチョフが進めた自由化・民主化の波に乗って演説した…のかは分かりませんが、この演説から2年後の1989年、当時の東ドイツ報道官・シャボウスキーの有名な勘違い※によりソ連崩壊を待たずしてベルリンの壁は崩壊、再び東西ドイツは統一されるのでした。
※勘違いの内容↓
ブランデンブルク門
そしてこちらがベルリン、ひいてはドイツの象徴的建物の一つであるブランデンブルク門。ドイツ国内で発行される10セント硬貨の裏にはこの門が描かれていたり。
一時はフランスに持ち去られていたヴィクトリア像は、現在は堂々と門の頂上で鉄十字を掲げています。やはり、実物を見ると感動するものです。
最近は環境活動家に塗料をぶちまけられたそうですが、果たして元に戻ったのか。
虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑
こちらの石碑群はその名前の通りホロコーストの事実を現代に伝えるもので、地下には資料館が。
ぶっちゃけ何も知らない人間にとっては、「かくれんぼしやすそう」だったり、「鬼ごっこしたら楽しそう」だったり、感じるものは様々だと思いますが(主観)、重々しい事実を伝えるモニュメントであることを忘れてはなりません。
国会議事堂
1800年代初頭、ナポレオン率いる隣国フランスとの戦争に参加した学生義勇軍の学生服(マントの黒・肩印の赤・ボタンの金)は由来とされる、黒赤金の三色旗が堂々とはためくこの建物は国会議事堂。
いかにもヨーロッパの歴史的建造物に見られる建築様式に近代的なガラス張りのドームが特徴的です。
ドイツ連邦共和国の政治の中心部らしく、議事堂前には政治的主張を叫ぶ団体が。ドイツ語とロシア語表記があったり、ドイツ帝国旗とロシア帝国旗を背負う人間がいたりと、おそらくロシア・ウクライナ戦争関係の主張。
こんな雰囲気であまりうろついていてもアレなので、そそくさと離れます。
寒かったので中央駅に寄り、スタバのあったかい飲み物でしばし休憩。
その後は、ウンター・デン・リンデンへと入っていきます。
(後編へ)
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