朴正煕記念館とベタなソウル観光【ユーラシア大陸陸路横断記#4】

2025年11月9日 天気:晴 気温:18℃/12℃

この日は仁川港まで行って翌日の威海行きフェリーを予約しようと思っていたものの、WeChat(微信)のミニプログラムからあっさり予約できた。実は仁川港まではソウル市内からだと結構時間がかかるので、非常に助かる。

朴正煕記念館

という訳で図らずも1日フリーになったので適当にどこか行こうと思い…思いついたのが朴正煕パク・チョンヒの記念館。実は昔韓国現代史に少し興味があったことがあり、その中でも一番印象的というか、記憶に残っているのが朴正煕の時代だった。

大分記憶は薄れてしまったものの、今でも韓国現代史は個人的にはかなり面白いと思っていたり。

詳細は記念館の紹介がてら後ほど。

デジタルメディアシティ駅周辺の団地。韓国ではこういった同デザインの建物が密集して建てられている区画をよく見かける。

ソウル駅から空港鉄道・A’REXに乗って3駅、デジタルメディアシティ駅で下車。そこから南西に歩いて10分ほどで記念館に到着。

誇らしくはためく太極旗。
「我が生涯を祖国と民族のために」と漢字混じりで書かれた揮毫。朴正煕以前の韓国では漢字教育が根強く、1970年の漢字廃止宣言までこのように漢字とハングルが織り交ぜるようにして使われていた。

入館料は無料で、中に入ると受付?の人から「どこから来たんですか?」と聞かれ、日本だよ~と答えると、「ごめん、日本語のパンフレットはないんだけどこれあげるね」と英語版のものをくれた。訪韓する日本人の客層を考えればここに足を運ばないのは自明かもしれない。

ちなみにパンフレットは英語だけだったものの、解説には日本語も併記されている。外国の博物館・記念館で母国語の解説が読めるなんてありがたい限りだ。

早速展示ルームへ。

出自と太平洋戦争終結まで

朴正煕の家族が暮らしていたという当時の家屋の再現。

朴正煕は亀尾クミ郊外の貧しい農村部で、7人兄弟の末っ子として生まれた模様。首相や大統領まで上り詰める人物は往々にして出自が恵まれている人間が多い気はするが、たまに田中角栄みたいな傑物も出てきたりもするなあとか思いつつ。

その後は貧しい生活を送りながらも地元の小学校を優秀な成績で卒業し、教師の薦めで師範学校へ入学。師範学校を卒業した後は教師としての道を歩んだ。

当時の朴正煕の成績表(小学校時代)。バリバリに日本語なのが時代を感じさせる。
朴正煕が教師時代に勤務していた開慶公立普通学校。

1937年から3年間教師として勤務したようだが、当時の韓国は日本統治下にあり、皇民化政策の真っただ中。朴正煕自身は日本軍人に憧れを持ちつつも「朝鮮人」としてのアイデンティティは失うことなく、日本人教師がいない隙を見て子供たちに朝鮮語や韓国の歴史を教えていたらしい。

しかも、家庭が貧しい子供たちには授業料を扶助してあげたりと、とてもやさしい先生だったそうだ。これは彼の出自がそうさせたのだろうなあ。

その後は師範学校時代から抱いていた軍人としてのキャリアを歩むため、満州にある士官学校へ入学。優秀な成績で卒業し1944年に卒業したが…その頃の日本は皆さん知っての通り敗色濃厚。1年と少しばかり従軍した後、内モンゴルで終戦を迎えた。

権力の掌握、漢江の奇跡へ

「腐敗と無能に立ち向かう」というあまりにストレートな表現に笑ってしまった。あと「日帝強制占領」も。国が違うと歴史観も違って実に面白い。

日本が太平洋戦争に敗れ、解放されたのも束の間、今度は朝鮮戦争が勃発。その後もガッタガタな国内経済に政界では汚職が蔓延り…国内が混迷の最中に陥る中、軍事クーデターを起こしたのが朴正煕だった

朴正煕の大統領就任を伝える当時の新聞と宣誓書。漢字混じりなので何となく読める。

クーデターを成功させた朴正煕は戒厳令を布告し、国家再建最高会議の議長に就任。憲法の改正によって第三共和国体制を確立させ、民政復帰後に自ら第5代大統領に就任。

大統領となった朴正煕は、当時北朝鮮にも劣る貧国であった韓国経済を発展させるため、ソ連等を参考に「五ヵ年計画」を始動。元手となる資金は西ドイツやベトナムなどへの労働者の派遣によって入手し、その資金を軽工業へ投資。軽工業で行き詰まると続いて重化学工業へと舵を切り、国家の重点目標として集中的に投資した。

「一国の復興と発展の原動力は、科学技術とそれを用いた産業技術にある」とは朴正煕のお言葉。

そんな五ヵ年計画が功を奏し、朴正煕が大統領に就任した1年後の1964年、韓国の輸出総額は1億ドルだったものの、わずか13年後には100億ドルまでに急成長漢江ハンガンの奇跡」とも呼ばれる高度経済成長を実現した。

しかし、工業による経済発展ではどうしても農村は置いて行かれがち。

そこで朴正煕は「勤勉・自助・協同」をスローガンに、農村部では「セマウル運動」を展開。政府主導で農村振興を進め、水道や電気設備の普及から、茅葺き屋根の家もセメントへと建て替わり…米の自給率は100%を超え、農村所得も都市の所得を凌ぐほどに改善されたのでした。

…このように当時北朝鮮にも劣る貧国であった韓国を一気に先進国まで押し上げたこのスピード感とサクセスストーリーが、韓国現代史のハイライトとして個人的には非常に好み。

いやあ、素晴らしい大統領だなあ。

・・・

そんな美しい話ばかりな訳ないだろ!

光があれば影もある。完璧な聖人君主なんてこの世には存在しないのです。あくまでもこの記念館は「朴正煕の功績を称える」ための施設なので、影の部分には一切触れられていません

どうして韓国がここまでの急成長を遂げたか、それは彼の独裁によるものであったことは否めません。大統領として強権を振るい、政敵を次々と妨害しつつ改革を無理矢理推し進め、自身の任期延長のために選挙工作を行って憲法まで改正し、大統領の再選を無制限にして終身独裁者になるなど、中々なことをしています。

それでも、今の韓国が先進国として存在しているのは、朴正煕の功績であることも事実。

そのため、韓国国内では今でも評価が真っ二つに分かれる政治家で、実際に旅の途中で出会った韓国人に聞いてみても「彼の評価は本当に難しい」と言われてしまう始末。

しかし、彼が戦後韓国の惨憺たる現実を目の当たりにして立ち上がった愛国者であり、祖国のために生涯を懸けて改革に取り組んだことに疑いはない…と私は思います。

色々な意見がある人物ではあるものの、個人的には歴史上の人物としてはかなり好きな部類ではあります。

光化門広場と景福宮

活動開始したのも遅く、朴正煕記念館が思ったより見応えがあったので時刻は既に15時。ここからはベタなソウルの観光地にでも行ってみることに。

景福宮に向かう途中、光化門広場には李舜臣イ・スンシンの像が。

秀吉が天下統一を成し遂げた後、次なる野望として明と朝鮮に攻め入ろうとしましたが…そこに立ちはだかったのがこの李舜臣率いる朝鮮水軍。

像の足元にもある亀甲船を率いて日本軍と激闘を繰り広げ、見事撃退。韓国、そして北朝鮮でも「救国の英雄」として扱われている模様。実は100ウォン硬貨はこの人の肖像だったり。

続いて世宗セジョン大王像。15世紀の朝鮮王朝前期の王で、今の朝鮮語で用いられているハングルを作ったのはこの人物。1万ウォン札に描かれているので見覚えがあるかもしれません。韓国国内では半ば伝説的な扱いを受ける人物で、こちらも非常に評価の高い人物。

この辺りは国内でも人気の観光地らしく、光化門前には人だかりができていた。

景福宮の中へ。通常は入場料がかかるものの、この日はなんと無料開放されていた。とてもありがたい。

門に入ったかと思えば、その中にまた広場が広がっていてさらに門が続き…幾重にも層になっている構造が非常に興味深い。

京都御所とかもこんなような構造だった気もするが、ここはその倍ぐらいはある宮殿建築だった。

権威を意識させるような「空間」の構築が意図されているようで。

見ていると、なんだかんだ日本の寺院等に見られる建築様式と似通っていたり、伽藍配置にも共通するてんがあったりと、同じ東アジア文化圏なんだなあと改めて実感した。

ただ、装飾が日本では見られないような色彩をしていたりと、異国情緒も感じます。

庭園は見事な借景だった。
韓国の政治の中枢、青瓦台を望む。

その後は伝統家屋が立ち並ぶ北村韓屋村にも立ち寄り、明洞まで歩いて戻った。

伝統衣装を着て撮影する人も多かった。

明洞へ戻る途中、実はこの先の旅で米ドルがもっと必要になることが判明したので両替所を探しながら歩いていたものの、円をウォンには両替できても、ウォンをドルには替えてもらえないところばかりだった。うーむ。

それはさておき、明洞では地味にまだ手を出したことが無かったプルダックの麺を注文。辛いのは好きなものの、想像以上に辛かったのでしんどそうにしていると、屋台のおばちゃんが「辛いか?笑これでも飲んで落ち着きな」とおでんのスープを出してくれた。

釜山のトッポッキの屋台といい、スープを飲む文化なのか何故かよく出してくれる。

あとはコインランドリーで洗濯。この旅ではあと何回洗濯することになるのか…そんなことを考えながら乾燥機を回しつつ日記を書いていた。

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